2022年11月18日金曜日

スタイルの変更

このブログはタイトルに Midnight を含むこともありダークテーマにしてあったのだが、読みにくいのでシンプルな白背景のテーマに変更した。 個人的にはとても読みやすくなった。

2022年8月17日水曜日

チュウレンジ

サツキの葉が無くなっていた。 ルリチュウレンジの幼虫に食い尽くされたようだ。 ルリチュウレンジのルリはもちろん瑠璃の意味で、成虫の体色が青っぽいところから来ている。 ではチュウレンジとは? 意外にどこにも正解が見当たらない。

手軽に手に取れる図鑑類にそんなに詳しく解説されるほどのものではない。 一応図鑑的記述の例として「標準原色図鑑全集 昆虫」というのが図書館にあったのでそれから引いてみる。 体長9mm。全体が濃い青藍色で光たくが強い。日本各地に産する。という本文とルリチュウレンジハバチの幼虫はツツジの大害虫として有名である。という補足説明である。

園芸の本には駆除方法ぐらいしか載っていない。 近い種類にバラの葉を食べるチュウレンジ・ニホンチュウレンジ・アカスジチュウレンジなどがいるので、その方面も見たが同様だ。

漢字ではチュウレンジバチを「鐫花娘子蜂」と書くらしい。 中国語での表記ということだろう。 さすがにこれの音読みから変化したとは考えにくい。 意味としては「鐫」が穴を穿つということで、穴を開けて産卵する特徴を捉えたものらしい。

寺の名前という考えも浮かぶ。 四国に中蓮寺峰という山がある。 中蓮寺はそこにかつてあった寺の名前とのこと。 山形には湯殿山注連寺がある。 しかし、関連性は見当たらない。

あとは初出でも調べるか、と「日本国語大辞典 第2版」を開く。 チュウレンジの項は無かったが、意外にも同じ読みの「ちゅうれんじ」があった。 ちゅうれんじ【中連子】[名]細長い板や竹を一定の間隔でうちつけた、中型の窓。*俳諧・去来抄(1703-04)先師評「中れんじ中切(なかぎり)あくる月かげに(去来)

これがハバチの方のチュウレンジの語源そのものである可能性も無きにしも非ずか、というのが今回の主な思いつき。 チュウレンジはバラの茎に産卵する(その卵の様子はたとえばこちらで見ることができる)が、この一つずつ部屋のように区切られていますという整然と並んだ感じを中連子に見立てたとは考えられないだろうか。

以下は完全に余談。 この「中」は本当にチュウなのだろうかと疑う事例を見てしまった。

土間へはいって、中櫺子(なかれんじ)の下の水瓶から水を汲み出し

吉川英治「梅里先生行状記」(青空文庫)

謎は謎のまま。

2022年7月24日日曜日

情報が物理的……つまり数学は形式主義

今回はだいぶ大風呂敷です。 そして雑です。 まずは世界から語り始めます。

世界は存在します。 と仮定しないと話が進まないので仮定します。 しかしながら、人間は(あるいはおよそ全ての生物や機械は)それをあるがままに受け取ることはできずに、常に観測によって観測値を受け取ることしかできません。 観測値は、離散的です。 言い替えると、何らかのビット列で表現される情報です。 思い切った言い方をすれば自然数です。 そして、この過程は世界の内に起こる現象なので、情報も世界と独立にあるのではなく、必ず世界の内に表現されます。 情報は物理的である(by Landauer)、ということです。 情報とは離散的に変化しうる対象の一時的な永続状態で、書き換えられる(別の状態に移行する)までは何度でも同じ状態を観測できるもの、と考えていいでしょう。 (情報についてこういう説明をしているのを見たことはないのですが、多分こんなところだと思います。)

自然数のみで表現される世界を情報世界と呼びましょう。 人間の思考もここに全て含まれます。 少なくとも言葉(や記号)を使った思考はここに含まれ、他人と共有できる思考は全て含まれるのは明らかでしょう。 およそ学問は情報世界にあります。

物理学は、世界に対峙して、観測値の間の整合的な関係を追求しています。 量子力学に至るまでは、世界と観測値はほぼ同じものに見えていましたが、観測が世界の状態を不可逆に変えてしまうということが知られた以上、世界は世界、観測値は観測値と考えざるを得なくなりました。 その上で、観測値はデタラメではなくある種の確率論にしたがって得られる、というのが量子力学の新しい観点なのでした。

数学は(ひとまず世界に関係なく)情報の間の整合的な関係を追求しています。 数学が物理学の役に立つのは仕組上必然的であって、驚くようなことではないのです。 (「整合的」とは何か、ということを考えると根本的には物理的な基盤を共有しているから、というべきかも知れません。話が膨らみすぎるので省略します。)

さて、数学の基礎は情報にあります。 数学者の言い方でいえば記号と論理です。 記号は、それ自体以外に、指し示す対象を持つと考えるのが自然に思えますが、「対象」が世界を踏み越える場合があります。 たとえば自然数。 世界の内に表現され得る自然数は宇宙も所詮有限なので有限ですが、その限界を明示することも困難なので、任意の自然数 \(n\) に対して後者 \(n+1\) が存在する、という論理構造だけを制約として、無限に存在すると想定します。 このような自然数が素朴に「存在する」と考えると、プラトニズムというお花畑に足を踏み入れるしかなくなります。 逆に「存在する」を世界の内に表現される場合に限ると生真面目に捉えると、普通の意味での数学とは相容れない立場となってしまいます。

そこで、「自然数の全体」 \(\mathbb{N}\) とその元に関する数学的帰納法という公理を認めて、記号の間の関係だけ論じる、という立場が現れます。 これは記号だけの話なので情報世界の内で完結します。 「自然数の全体」を素朴な意味で受け取るのではなく、あらかじめ定められた公理を満たす記号として割り切るのです。 要するに「自然数」「無限」「集合」などの意味を担っているように見える言葉の直観的意味は実際に何を指し示すものなのですか、と問われたときに、それもまた記号をもって論じられる以上、最終的に記号同士の関係以外のものはあり得ないではないかと思い至ります。 こうして、数学は形式主義に到達するのです。

  • 幾何学は点・直線・平面の代わりにビールジョッキ・椅子・机を使ってもできる
  • 存在するとは矛盾しないことだ

こうした Hilbert の言葉を初めて理解した気がしました。

2022年5月11日水曜日

冪乗の「冪」。 「冖」が意符で「幕」が音符、と理解していたが、意外と混沌としていた。

漢字それぞれの成り立ちについて解説しているページというのが案外見つからなかったので、個人のページを参照するのだが、

白川

形聲。聲符は冖。

儀禮・既夕禮冪用疏布(冪に疏布を用ふ)の《注》に覆ふなりとあり、棺を覆ふ布をいふ。

雲が深く垂れ籠めることを「雲、冪冪たり」といひ、すべて深く覆ふことをいふ。

藤堂

幕と音符冖(覆ひ隱す)の會意兼形聲。幕で覆ひ隱すことを示す。冪は冖の後出の字。

冪 - 漢字私註

まずワ冠としか読んでいなかった「冖」の音、ベキ、でなんと「冪」と同じなのだ。 なので上に引用した2説はどちらも「冖」が音との立場。

私の元々の理解は手元にあった辞書でいうと『新明解漢和辞典』の次の解説が当てはまる。

形声、幕バクの転音が音。

一方『新字源』には全然違うことが書いてある。

会意形声。幂が本字。幂は巾きん(きれ)と、おおう意と音とを示す冥ベイ→ベキとから成る。もと、幎ベキと同じ。冪は冖ベキと幕とから成る。

草冠の欠けた形が本字とは、という驚き。 そして、誤字としか言えない「羃」を排撃して、返す刀で「巾」なる略字もバッサリいく予定で始めた調べ物だったのに一分の理がありそうな記述を見つけてしまい、ちょっと悔しい。

方向を変えて、覆い隠すというような意味の漢字が冪乗を表す理由を探してみた。 次のようなネット上の答を見つけた。

ワかんむりに幕ですから、「ワ」かんむりは「オホフ」の意味、幕も「覆いかくすもの」の意味。会意形声文字で、「覆い」さらに「覆う」から和義として、「同数の相乗積」の意となる。と、調べられました。(大字典より)

教えて! goo

もともとの記述がどこからどこまでなのかは『大字典』を確認する必要があるが、ともかく「冖」と「幕」から成る字という前提でしかこの説は成り立たない。

着地点を見失ったこの文章、「冪」を略すなら「冖」がいいんじゃない? 略す必要もないけど。 という誰も得しない結論をもって終わりとする。

2022年4月29日金曜日

多項式の次数

概要: 多項式の次数はただの自然数ではないという話。

自然数は和による可換モノイドであるだけでなく、全順序の構造も持つ。 一般に、半順序の構造を持つ半群を順序半群という。 そこでは不等式(順序関係)の両辺で同じ元との半群演算を行っても順序構造が変わらない、という条件を置く。 自然数はその意味で順序半群の一種である。

多項式の次数は、自然数みたいなものである。 次数 \(n\) の多項式と次数 \(m\) の多項式を掛けるとき、次数は \(n+m\) と足し算になる。 面倒なのが \(0\) の扱いで、雑に扱うときは多項式 \(0\) の「次数は考えない」などと言ってごまかす。 ごまかさないとすれば、\(0\) は多項式の積における零元なので、次数にも零元が必要になる。 しかし、自然数には零元が存在しない(和を考えているので \(0\) は単位元であって零元ではない)。

半群に零元を添加するのはいつでも可能である。 自然数にも零元を添加しよう。 仮に \(\lozenge\) で表すことにする。 満たすべき演算規則は次の通り。 \[n + \lozenge = \lozenge + n = \lozenge\] この \(\lozenge\) を導入した自然数を \(N_\lozenge\) と表すことにする。

いま、考えていた自然数の構造は順序半群(実際は全順序モノイド)だったので、半群としての零元の導入が順序についても矛盾なく行われなければ、あまり意味がない。 自然数の順序構造は全順序だったので、\(\lozenge\) の入る余地は3通り考えられる。 最小元、最大元、中間の元である。 が、中間の元にはできないことを先に確認しよう。 \(\lozenge\) が \(a\) と \(a+1\) の中間に埋まると仮定しよう。 すなわち、 \[a \lneq \lozenge,\qquad \lozenge \lneq a+1\] ところが、左の式の両辺に \(1\) を足すと \[a + 1 \lneq \lozenge\] となり、右の式と矛盾する。 したがって、\(\lozenge\) は自然数の間に入ることはない。

次に、最小元の場合を考えると、任意の自然数 \(n\) について \[\lozenge \leq n\] が成り立ち、両辺に何を足しても、\(\lozenge\) は \(\lozenge\) であり、右辺は自然数だから、特に矛盾は生じない。 同様に、最大元の場合にも矛盾なく導入することができる。 以降、最小元として零元を入れた場合 \(\lozenge\) の代わりに \(\bot\) を使って \(N_\bot\) と表記する。 最大元として入れた場合も同様に \(N_\top\) と書くことにする。

もう一度多項式の次数に話を戻そう。 多項式 \(0\) の次数は、半群として零元でなけらばならなかったが、順序の上ではどうだろう。 これは主に割り算(擬除算)の都合という事になるのだが、\(f\) を \(g\) で割ったとき、商 \(q\) は何でもいいのだが、余り \(r\) は「次数が \(g\) の次数よりも小さい」と、たとえ \(g\) が \(f\) を割り切って \(r=0\) となる場合にも、言えた方が良い。 このことから順序半群としては \(N_\bot\) を使うのが妥当である。

twitter にこんなことを書いた時点では、零元という条件だけを考えていたが、順序も矛盾なく扱うためにはやはり -∞ でなければならないという結論になる(\(\bot\) をふつうは \(-\infty\) で表す)。

多変数多項式に拡張する場合にも次数は \(N^k_\bot\) という順序半群で扱うべき(\(N^k\) に \(\bot\) を添加したもの。\(N_\bot\) の直積ではない)。

2022年1月3日月曜日

2021年の読書

例年のように、昨年の読書を振り返る。 読書メーターの記録に依れば前年と同じくマンガも入れて100冊ぐらいだった。

案外、印象に残ったというほどの出会いは無かったような気がするが、 テーマ的に量子力学の本は何冊か読んでいた。 量子論の果てなき境界実在とは何か世界は関係でできている量子力学10講など。 入門 現代の量子力学は読みかけで止まっている。 物理学と情報科学の関係がすっきりすれば自分の中では目的達成なのだが。

小説をあまり読まなくなって久しい。 そんな中、三体シリーズ(III上II下III上III下)と沢村凜のソナンと空人シリーズ(1234)をどちらも一気読みした。

新しいきっかけとして、YouTube から、というものが何冊かあった。 Sabine hossenfelder の Lost In Math (日本語版「数学に魅せられて、科学を見失う」も出た)、 藤森哲也の将棋放浪記の他、 幾何学と代数系を再読したのも Geometric Algebra の紹介動画を見たからだった。

2022年はどんな年になるだろうか。

※本のリンクはamazonアフィリエイトです。