2019年2月2日土曜日

数学の基盤

最近実数論の本を何冊か読んでいる。 その中で思ったことを書いてみようと思う。

実数はユークリッド幾何学の帰結である

ユークリッド幾何学は、直線は限りない延長をもつし、線分はいくらでも分割できる。 果てしなく遠いところからものすごく小さい領域まで一様な世界で成り立っている。 これは人間の日常感覚の極大と極微への外挿である。 言い換えると、人間の直観が通用する世界を仮構したものである。

この世界では、線分に確定的な長さを定義できる。 これにより、対角線の長さとして無理数が導入された(まだ代数的数の範囲ではあるが)。 そして、通約不能な二つの長さに常に確定的な比を与えるには無限小数展開のような仕掛けが必要になる。

ユークリッド幾何学だけが特別なのか

ユークリッド幾何学、と上では言ったが、実際のところ非ユークリッド幾何学にしたところで似たり寄ったりである。 ニュートン力学にしても、さらに言えば相対性理論にしても、極大から極微まで一様な世界を仮定していることには変わりない。 これらをまとめて古典世界と呼ぶことにしよう。

おそらく古典世界を抜け出した理論は量子力学しかない。 そこではいかなる観測も不確定性を逃れられないので、長さも幅のある観測値の統計としてしか把握できない。

数学全体が古典世界に属しているのではないか

現在の数学が基盤としている論理と集合論は、基本的に実数論を支えるようにできあがっている。 ということは、これも全体として古典世界に属していると言うべきなのかもしれない。

なぜそうなっているのか、というと最初に戻るが、古典世界というのが「人間の直観が通用する世界」という枠組みだからである。 人間の理解は結局、世界が直観に反していたとしても、人間の直観が通用する世界に引き戻さないと実現しない。

人間は特別なのか

「人間の直観」などと書いてきたが、本当は人間に固有の事情はほぼ無いと思っている。 だいたい人間と同じぐらいの大きさの陸上に暮らす生き物がもつ直観、という程度には広い適応範囲があるものだろう。 量子力学的効果が日常に感じられない程度の体格があれば世界を把握する原始的モデルは人間と大して変わらないはずだ。 突き詰めれば古典世界は生物のサイズによる制約だ。

さらに飛躍させれば、異星人という存在があったとしてサイズや元々の生息環境が人間と似ていれば、だいたい古典世界は相互理解可能だと思う。 「だいたい」というのは発展の筋道によって細部の理解に差はあるだろう、というような留保で、 人間同士でもちょっと時代が違えばそれなりに異なる理解をしていたのだからギャップがないわけではなかろうが、 でも根本的には同一の世界観の中での違いにすぎない、と私は見る。


以上、ちょっとメタな考えを述べてみた。 テューリング機械がニュートン力学的だ、という昔聞いた指摘の奥にもう一段階無意識の枠組みがあるんじゃないかという話なのかもしれないと自分で読み返して思った。