数学の対象は存在ではなく現象である。
というフレーズを思いついた。 1 という対象はどこにも存在しない。 整数という対象は存在しない。 整数の論理的条件に合致する現象について考えることしかできない。
最近、ホモトピー型理論 HoTT (Homotopy Type Theory) という理論を聞きかじった。 そこに univalence axiom (テキトーに訳すと「統価公理」)という要請がある。 ざっくりした理解で言えば、同じ振る舞いをする型は同じ型ということにする、という原理である。 実装の違いに依らず整数は整数、というような説明をされる。 この理論を計算機科学の文脈で捉えるだけなら実装と言っておけば良いのだが、 集合論に代わる基礎論の文脈からはこれをどう考えるのだろう、とどこか引っかかっていた。
整数のように振る舞う対象は整数である。 そう考えると、全ての自由巡回群は整数である。 集合論的には別物に見えても、同じ振る舞いしかしないのだから。 つまり、整数について語ることは個別の存在について語っていると言うより、整数という現象について語っているのだ。 これがたどり着いた結論である。
数学では存在量化子という記号を使って存在について語っているように見える。 しかし、現象についてしか語っていないとすれば、この記号は別様に解釈しなければならない。 古典論理では、「外れることのない現象の予言」と見なせるだろう。 外れることがないのだからそれに基づいてさらなる予言を積み重ねることが正当化されるという立場。 しかし直観主義論理では「成就への筋道が示された現象の予言」しか受け入れない。 外れないのは必ず当たることとは別だという立場である。
プラトニズムのお花畑から距離を置くことができたかな。
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