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情報が物理的……つまり数学は形式主義

今回はだいぶ大風呂敷です。 そして雑です。 まずは世界から語り始めます。 世界は存在します。 と仮定しないと話が進まないので仮定します。 しかしながら、人間は(あるいはおよそ全ての生物や機械は)それをあるがままに受け取ることはできずに、常に観測によって観測値を受け取ることしかできません。 観測値は、離散的です。 言い替えると、何らかのビット列で表現される情報です。 思い切った言い方をすれば自然数です。 そして、この過程は世界の内に起こる現象なので、情報も世界と独立にあるのではなく、必ず世界の内に表現されます。 情報は物理的である(by Landauer)、ということです。 情報とは離散的に変化しうる対象の一時的な永続状態で、書き換えられる(別の状態に移行する)までは何度でも同じ状態を観測できるもの、と考えていいでしょう。 (情報についてこういう説明をしているのを見たことはないのですが、多分こんなところだと思います。) 自然数のみで表現される世界を情報世界と呼びましょう。 人間の思考もここに全て含まれます。 少なくとも言葉(や記号)を使った思考はここに含まれ、他人と共有できる思考は全て含まれるのは明らかでしょう。 およそ学問は情報世界にあります。 物理学は、世界に対峙して、観測値の間の整合的な関係を追求しています。 量子力学に至るまでは、世界と観測値はほぼ同じものに見えていましたが、観測が世界の状態を不可逆に変えてしまうということが知られた以上、世界は世界、観測値は観測値と考えざるを得なくなりました。 その上で、観測値はデタラメではなくある種の確率論にしたがって得られる、というのが量子力学の新しい観点なのでした。 数学は(ひとまず世界に関係なく)情報の間の整合的な関係を追求しています。 数学が物理学の役に立つのは仕組上必然的であって、驚くようなことではないのです。 (「整合的」とは何か、ということを考えると根本的には物理的な基盤を共有しているから、というべきかも知れません。話が膨らみすぎるので省略します。) さて、数学の基礎は情報にあります。 数学者の言い方でいえば記号と論理です。 記号は、それ自体以外に、指し示す対象を持つと考えるのが自然に思えますが、...

ピュタゴラス学派の再興

ピュタゴラス学派に帰依しよう。 「万物は数である」 (注意)この文章は、いつにも増してラフなできあがりとなっております。 21世紀的解釈 私は「万物は数である」なる標語を次のように解釈する。 「ビットから構成される世界だけが認識できる」 ビットは物理的存在である。 持続する対比可能な状態は何でもビットたり得る。 持続時間はそれをビットとして利用する存在にとって利用可能とみなすことができれば良い。 生身の人間には CPU 内部の電気信号は小さすぎるし変化が速すぎてビットとして利用可能でないが、 CPU にとってはビットとして当然利用可能だし、コンピュータというシステムを介せば人間にとってもビットとして利用可能と言って良い。 これを抽象概念と片付けてはいけない。 たとえば思考を経由せずに生物は DNA に記録されたビットを操作できるのだから。 自然数はビット列の一つの、一番自然な、解釈である。 当然ながら古代ギリシアにはビットの概念は見つかっておらず、代わりに数を取り上げたピュタゴラスの卓見には敬服するしかない。 ビットが物理的存在であると同様に自然数も物理的存在だと言って良い。 ただし、数学者のように自然数が無限に存在する、と言うためには理想化された世界モデルが必要になってくる。 言語もビットの上に構築されるシステムである。 音素や文字などの持続する対比可能な状態から組み立てられている。 人間が「認識できる」ものが言語化されず、数値化もされないことがあろうか。 学問分野間の関係 ビットの科学と言えば計算機科学だろう。 数学から20世紀に派生した、と考えられるが、そこに現れる大きな特徴は全てが離散的(ビットに基づいていると言って良い)で、なおかつ計算はビットの操作の積み重ねであることを明確にした点にある。 特に、計算量の理論は重要である。 数学を算術と幾何に分ける古い分類に従って考えてみると、算術は正にビットの理論だったと言って良い。 一方の幾何はピュタゴラスの昔からビットとの相性が悪い。 幾何をビットで表そうとすると一般に無限の操作が要求される。 たとえば実数は「直線上の地点をどれだけでも正確に指定し分けることができる」ということを実現するためのシステムと言って良いと思うのだが、一つの地点を指定するのに無限の労力(計算量)が要求される。 これ...

数学の基盤

最近実数論の本を何冊か読んでいる。 その中で思ったことを書いてみようと思う。 実数はユークリッド幾何学の帰結である ユークリッド幾何学は、直線は限りない延長をもつし、線分はいくらでも分割できる。 果てしなく遠いところからものすごく小さい領域まで一様な世界で成り立っている。 これは人間の日常感覚の極大と極微への外挿である。 言い換えると、人間の直観が通用する世界を仮構したものである。 この世界では、線分に確定的な長さを定義できる。 これにより、対角線の長さとして無理数が導入された(まだ代数的数の範囲ではあるが)。 そして、通約不能な二つの長さに常に確定的な比を与えるには無限小数展開のような仕掛けが必要になる。 ユークリッド幾何学だけが特別なのか ユークリッド幾何学、と上では言ったが、実際のところ非ユークリッド幾何学にしたところで似たり寄ったりである。 ニュートン力学にしても、さらに言えば相対性理論にしても、極大から極微まで一様な世界を仮定していることには変わりない。 これらをまとめて古典世界と呼ぶことにしよう。 おそらく古典世界を抜け出した理論は量子力学しかない。 そこではいかなる観測も不確定性を逃れられないので、長さも幅のある観測値の統計としてしか把握できない。 数学全体が古典世界に属しているのではないか 現在の数学が基盤としている論理と集合論は、基本的に実数論を支えるようにできあがっている。 ということは、これも全体として古典世界に属していると言うべきなのかもしれない。 なぜそうなっているのか、というと最初に戻るが、古典世界というのが「人間の直観が通用する世界」という枠組みだからである。 人間の理解は結局、世界が直観に反していたとしても、人間の直観が通用する世界に引き戻さないと実現しない。 人間は特別なのか 「人間の直観」などと書いてきたが、本当は人間に固有の事情はほぼ無いと思っている。 だいたい人間と同じぐらいの大きさの陸上に暮らす生き物がもつ直観、という程度には広い適応範囲があるものだろう。 量子力学的効果が日常に感じられない程度の体格があれば世界を把握する原始的モデルは人間と大して変わらないはずだ。 突き詰めれば古典世界は生物のサイズによる制約だ。 さらに飛躍させれば、異星人という存在があったとしてサイズや元々の生息環境が人...