その昔、自転車日記というシリーズの中で 馬橋道(じゃないな多分) という文を書いたことがある。 "馬橋道"と呼ばれる道の延長がどこを目指すのか判らないというネタだった。 そもそもこの"馬橋道"という呼び名は近所に立っていた史跡案内的な看板に現れていたから使ってみたのだが…。
時は経ち、某ゲームに興じるうちにその看板辺りにも良く行くようになって、もう一度"馬橋道"を調べてみようと思った。 まずは基礎資料1、その看板の内容である。
石塔の南側の道路は、五日市街道の旧道で通称「白幡の坂」、西側の道路は「馬橋みち」といわれた古い道で、共に急坂な難所の一つでした。
杉並区教育委員会 文化財案内標示板「民間信仰石塔 (成田東三丁目)」
さて、教育委員会は何の資料に基づいてこれを書いたのか、と考えて図書館の郷土資料コーナーで繙いてみた。 基礎資料2「杉並風土記」。
角地の西側の道路は、江戸時代からあった古道で鎌倉みちと呼ばれ、府中が武蔵国の中心であったころには、阿佐ヶ谷村、練馬村方面の人たちが年貢米を府中の役所へ納めに通った道です。
南側の道路は、五日市街道の旧道で、大正十年に尾崎橋から真っすぐな現在の道ができるまでは、「白幡の坂」と呼ばれた急坂でした。吉祥寺、大宮前、久我山方面のお百姓さんが、東京への往復に、野菜や下肥を積んだ重い手車をひいて、この急坂の上り下りにずいぶん苦労し泣かされたそうです。
森泰樹「杉並風土記 上巻」杉並郷土史会(昭和52年) p.373「白幡のお地蔵様」
"馬橋"ではなく、"鎌倉"だった! 尾崎橋を越えた西側の成田西児童館から南に向かう道がこの辺りでは"鎌倉街道"と呼ばれているので、難所の尾崎橋(参考:旧五日市街道の難所「尾崎の七曲り」)を五日市街道と共有していたという話で辻褄は合うように思う。 そして阿佐ヶ谷・練馬方面への接続を考えると、成田図書館付近で阿佐ヶ谷から大宮八幡の方へ抜ける道と合流すると考えられる。 局所的に切り取れば馬橋道と呼んでもいいのかもしれないけど、鎌倉道と呼ぶのだとの説はだいぶ説得力がある。
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